真夏の炎天下を走ることのつらさを甘く見すぎていた。
1981年7月29日(水)
-くもりのち晴れ-
船が鹿児島新港に着いたのは、午前9時だった。大阪から沖縄への34時間の船旅の後、沖縄の炎天下、そしてまた今度は24時間の船旅と、コンディションは最悪である。
鹿児島。ある意味ではここが本当の出発点であるといえる。というのも、一般的に日本縦断といえば、日本最北端の宗谷岬と、九州最南端の佐多岬を結ぶコースをとるのが普通だからだ(日本縦断大計画のページ参照)。しかし、僕は日本を縦断すると同時に、47都道府県すべてを通過するというくだらない野望を抱いていた。したがって、沖縄を捨てるわけにはいかないのだ(だがこの野望はわりと初期のうちに、もろくも崩れ去る結果となる)。
ここから新たなるスタートとして、気分も新たにペダルを回し始めた。とは言っても、体調はすぐれず、頭はボーッとしたままだ。
鹿児島市内を通り抜け、海岸沿いの道を走る。鹿児島のシンボル桜島は、右手の海を隔てた向こう側にあって、ずっと僕について来る。まるで僕のことを見守ってくれているような、というより、心配で一緒に走ってくれているような、なんだかわかんないけど、温かみを感じる。一人旅の寂しさは、経験者でないとわからないだろうが、何でも擬人化して同行者にしてしまう。桜島には、旅人の心を包み込む大きさと優しさがあった。
道路沿いに小さな雑貨屋があったので、ジュースでも買うかとペダルを止めた。店のご主人は、60代半ばか70代くらいのおじいさんだった。地元の人との会話、これは僕の旅の目的の一つでもある。その土地土地の、なにか波長みたいなものを肌で感じ取りたかった。本当は方言を聞きたかったのだけれど、どこの地方の人も、よそ者に対しては標準語をしゃべろうとする。このおじいさんからも、鹿児島弁は耳にすることができなかった。しかし、都会とは違った、のんびりとした優しさだけは充分感じ取れた。
しばらく走ると、サイクリストに出会ったので話しかけてみた。
豆壱郎:「どこへ行くんですか」
サイクリスト:「帰省なんです。学校が夏休みなもんで」
豆壱郎:「田舎はどこ?」
サイクリスト:「北九州」
豆壱郎:「へえ。じゃ九州縦断だね」
彼に、桜島をバックに写真を撮ってもらった。しばらく一緒に走ったが、ペースが合わないので別々に走る。
桜島と一緒に
吐き気がいっこうに治らない。これはもう船酔いの余韻ではなさそうだ。日射病みたいなものか、それとも単に身体がまいっているだけなのか。休みたい。でも、ペースが予定よりかなり遅れ気味なので、そうそう休んでもいられない。
加治木町。ここからはどんどん山の中に入っていくので、その前に腹ごしらえをしておこう。時間は午前11時55分。朝めしは食べていないのに、腹がへっているようないないような、変な感じである。そば屋を見つけて入った。そばぐらいなら入るだろうと思ったのだが、あまり食がすすまない。無理やり流し込む。
ここから山間部30キロばかり県道を走る。登り坂が始まると、極端にペダルの回転が遅くなる。暑い。苦しい。吐き気はしょっちゅう襲ってくる。そんなに急坂でもないのに、全然前に進まない。まるで歩いているような速度だ。重いパックフレームが肩に食い込む。呼吸が激しい。道端に止めて少し休む。またよろよろと走り始める。自動販売機を見つけると吸い寄せられる。缶ジュースを買って飲む。また走り出す。吐き気をもよおす。休む。この繰り返しだ。
豆壱郎のちょっと一言
前年この自転車「ミニベロ」が完成したときに試乗して初めて感じたことだが、平地はよく走るのに、少しでも勾配がつくと全然登れなくなるのだ。僕は山が好きで、ランドナー(旅行用自転車)やロードレーサー(競技用自転車)では、どちらかというと坂道ばかり好んで走っていたほうなのだが…。
ようやく下り坂になった。ポツンと喫茶店があったので、少し涼んでいくことにした。クリームソーダを飲みながら、地図を開ける。まだ、予定の半分も走っていない。きょうの予定は、熊本県吉尾温泉。しかし、吉尾までの長い道のりを地図上で確認して思わず暗くなってしまった。まだこんなに走らなければならないのか。落胆の表情を抱えて、僕はうつむいたまま店を出た。
鹿児島/宮崎の県境
(1981年)
30年以上経過しても
このあたりの風景はさほど
変わっていないようだ。
(2014年)
吉松町を過ぎて、宮崎県に突入したときには、もうすでに日はずいぶん西に傾いていた。えびの市。広々とした風景の中、もう何も考えずにひたすらペダルだけを回す。
午後6時15分。喫茶店に入ってホットコーヒーを飲みながら、またまた地図とにらめっこ。吉尾まで55キロ。もうこれはどう考えても無理な距離だ。計画を変更せざるを得ない。第一日目から変更するということは、あとの日程すべてをひっくり返すことになるが、しかたがない。このぐらいなら走れるだろうとタカをくくっていた僕の考えが甘かったということである。そうと決まれば、もうここで晩飯も食べてしまおう。ピラフを注文。
お店のお姉さんに、
「この辺に旅館はありませんか?」
と尋ねてみた。
お姉さん:「うーん…。この辺はないけど、えびの市内まで行けばあると思いますよ」
豆壱郎:「距離はどのくらい?」
お姉さん:「5、6キロぐらいかな」
豆壱郎:「ありがとう」
豆壱郎のちょっと一言
このころは、こんな食生活でも不足はなかった。もちろん暑さで食欲もなかったが、のちに、1日5食してもまだ足りないという時がくるなどとは、想像もしていなかった。
飯野という町へ来た。旅館はすぐ見つかった。日本旅館である。
豆壱郎:「ごめんください」
女将さん:「はあい」
と、奥から女将さんが出てきた。
豆壱郎:「予約してないんですが、泊めてもらえませんか」
女将さん:「ええ。いいですよ、どうぞ」
よかった。
「宿帳お願いします」
旅館の女将さん。旅情をかきたてる。
2階の部屋に案内してくれた。入り口に掛け金のようなものがついている。これはカギのつもりなのだろうな。しかし、外に出たときはカギはかけられない。どうせよと?(笑)
部屋は6畳ほどの広さ。床の間があって、真っ黒の内線電話が置いてある。まさに古い日本旅館そのものといった感じだ。この雰囲気は嫌いではない。何だか、旅情をかきたてる。ウイスキーのCMかなんかに出てきそうだ。文庫本とボトル一本かかえて一人旅をしながら、こんな日本旅館の部屋で西日の当たる窓際に座り、夕日を眺めながらボトルを傾ける。う~ん、絵になるなあ。一人旅にシティーホテルは似合わない。日本旅館が一番。(と、一人イメージの世界に浸ってはいるが、現実には西日なんて当たっていなかったし、文庫本もウイスキーのボトルも持っていない)
再び女将さんが入ってきた。
女将さん:「すみませんけど、宿帳をお願いします。…それと、お食事どうします?」
豆壱郎:「あ、食べてきたんで結構です。あしたの朝はお願いします」
女将さん:「何時になさいますか?」
豆壱郎:「8時頃に」
女将さん:「はい、わかりました。お風呂は下にありますので、また聞いて下さればご案内します。では、ごゆっくり」
風呂から帰ってくると、もうちゃんと布団が敷けていた。浴衣を着て布団にもぐり込む。
さて、あしたからどうする? きょう50キロ以上走り残しがある。あしたこれを補って予定通りに走るのはとうてい不可能である。だいたい、このミニベロで一日に130キロを走らなければならない計画なのに、きょうまる一日走って80キロほどしか走れていないということは、この先予定のコースを走っていくと、宗谷岬に着くのは9月?10月?ばかな!
僕は、布団の中で自問自答を繰り返し、悩んだ末に、全県走破を断念。コースの変更を決意した。僕は少し欲張りすぎていたのである。所詮ミニサイクル。野望を抱く自転車ではない。コースを変更しても、日本縦断という当初の目的を断念したわけではないので、そんなに落胆するものでもない。あしたの予定を八代市に決めて、きょうはもう早めに寝よう。