なじみの四国路は、新鮮味がなかった。
1981年8月2日(日)
-晴れ-
午前7時10分起床。
2階の喫茶店で朝食を食べる。食事が終わったらすぐ支度をしてチェックアウト。きのう部屋からかけた電話が1,845円もついていた。ホテルから電話なんかするものでない。
午前9時20分。僕を乗せた船は別府港をあとにした。九州ともお別れだ。あれほど苦しめられたのに、船から見る別府の風景が遠ざかっていくにつれ、なんだか寂しさが僕の心の中でどんどん膨らんでいくのがわかった。
船は意外とすいていた。四国松山までは4時間もあるので、少し眠ることにする。もちろん熟睡はできない。うたた寝であるが、眠れるときには眠っておいたほうがいいということを、最近感じるようになってきた。しかし、2時間ぐらいで目が覚めてしまった。船の上ではすることがなく、退屈だ。
豆壱郎の独り言
これ以後5年間は、どこででも、どんな状態でも眠れるようなからだになっていた。イスに座って本を読みながら、その格好のまま本も落とさずに眠っているというのが、僕の得意技だった時がある(笑)。午後1時45分、船は松山港に着いた。
これから松山市のほうに向かって走る予定なのに、なぜか道を間違えてしまい、松山市からどんどん遠ざかっていったので、慌てて引き返す。約30分ロスしてしまった。
港の前の大衆食堂で玉子丼を食べた。背中で古い扇風機がカラカラと回っている。汗をたらしながら、玉子丼を口の中に押し込む。わけもなくため息をつく。夏の暑い一日。
愛媛県庁前(1981年)
車を見ると時代がわかる。
“ケンメリ”なんかが写っている。
松山市を過ぎてから、追い風になった。らくちんらくちん。また、道もなじみのある道なので、気分的にも余裕ができてくる。もちろん、九州も半分は知っている道だったけれど、やっぱり地元四国というだけで、安心感が違う。それともう一つは、ここまで走ってきて身体がずいぶん慣れてきたということである。出発して一週間、ようやく一日のペースというものがつかめてきたようだ。筋力も徐々についてきたと思われる。出発前にかなりトレーニングをしたつもりだったけれど、なんの役にも立っていなかったということがよくわかった。そりゃそうだ。本番では、炎天下を丸一日、それも毎日毎日走り続けるのである。どれだけのトレーニングをすれば安心できると言えるのだろう。
勝手知ったる地元の道だが、なまじ知っているだけに新鮮味がない。風景を楽しむでもなく、ただひたすら走り続けるだけだ。気がついたらもう夕方になっていた。
石鎚山のふもとに、ちょっと古そうなホテルを見つけたのが、午後7時だった。301号室。中は結構広い。いつものビジネスホテルと違い、バスとトイレが別々になっていた。しかし、バスは壁にカビが生えていて気持ち悪い。部屋の壁もひび割れができている。ホテルはやっぱり新しいほうが良い。べつにゴージャスな高級ホテルでなくていい。清潔感のある部屋でなくてはならない。
風呂に入ってからだを洗っていると、腕の皮がむけてきた。日ごろ太陽に当たることの少なかった僕は、日焼けに弱い。しかも、日焼け止めなど出発当時から全然頭の中にはなかった。ヒリヒリする。見た目にも相当汚らしい。完走するまでに何回皮がむけるかなあ。