何時間走っても変わらない風景。ペダルで進むにはあまりにも広すぎる。
1981年8月20日(木)
-晴れ-
昨夜のビールのせいか、はたまた朝の3時半から長時間走り続けたせいか、ぐっすりと眠ってしまい、起きたのは、午前8時40分だった。ユースホステルに泊まった場合は朝いつまでも寝てはいられないが、ビジネスホテルや旅館の場合は基本的にチェックアウトタイムまでは誰にも何にも言われないので、ついつい寝過ぎてしまう。
洗濯物はちゃんと乾いていた。これならきのう無理に買わなくてもよかったのにとは思ったが、まあいい。
チェックアウトして外に出てみると、きのうとうってかわって良い天気になっていた。しかし、晴れてはいてもたいへん寒い。8月とは思えない。北海道は夏でも涼しいとは聞いていたが、さすがにこれほどとは予想していなかった。半そでの上から、長そでのYシャツも着た。これでも震えるほどだが、走り出したら身体も温まってくるだろう。
1時間ほど走ったところで、ラーメン屋を見つけた。小さな店だ。10人も入ればいっぱいになるだろう。しかし、誰もいない。客もご主人もいない。
「すいませ~ん」
と大声を出して呼んでみたが、返事がない。2、3度続けて呼ぶと、ようやく奥からママさんが返事をしながら出てきた。まあ、こんな朝からラーメン食いに来る客もあんまりいないんだろうね。え?もしかして、また「準備中」か?と慌ててのれんを見たが、ちゃんと外にかかっているからやはり営業中のようだ。新潟で「準備中」の店に入って恥をかいた記憶が一瞬よみがえったのだが、そうじゃなくてよかった。
ラーメン屋を出たあと、滝川市までの思いっきりまっすぐな直線道路を走った。いつまで走っても、前に見える景色は同じだ。横を見ると、これまた同じ景色が延々と続く。1時間走っても2時間走っても、周りの風景が変わらないというのはじつに退屈なものだ。時間の感覚もなくなってくる。また、自分はさっきから全然距離が稼げていないのではないかという錯覚にまで陥ってしまう。まるでメビウスの輪のようにつながって無限軌道状態になった道をぐるぐる回っているようだ。
滝川市に着いた。たくさん荷物を積んだサイクリストがひとり、駅前で休憩していた。
豆壱郎:「こんにちは」
サイクリスト:「どこへ行くの?」
豆壱郎:「日本縦断です。あともう少し、宗谷岬まで」
サイクリスト:「じゃあ、もしかして国道40号線を通る?だったらだめだよ。通行止めらしいよ」
豆壱郎:「え?ほんと?ヤバいな~。なんで?」
サイクリスト:「俺もよくは知らないんだけど、なんでも土砂崩れが起こって工事中だって話」
豆壱郎:「ありがとう。ま、行けるとこまで行ってみるよ」
こういう情報は、非常にありがたい。通れないときはこっちの道、というふうに、事前に心の準備ができる。
昼過ぎに食事をしたが、それから1時間もしないうちにもう腹がへってきた。どうなってるんだ、この胃は。どこかに穴が開いてて、そこから漏れてるんじゃないのか。もともと小食だったはずの僕が、こんなに食べるなんてとても信じられない。もしかすると、脳の中の、空腹や満腹を感じる部分が、過酷な運動のために壊れてしまってるんじゃないのだろうか。自分の身体が怖い。
午後3時前だが、これ以上の空腹に耐えきれず食堂に飛び込む。結構大きな食堂で、まるで大会社の社員食堂のように、整然と長テーブルが並べられていて、全部座ると200~300人は座れそうである。しかし、そこにたったひとりだけポツンと座り、寂しく食事をしている僕の姿があった。
旭川市の少し手前を走っていたとき、「神威古潭(カムイコタン)→」という標識が目に付いた。何気なくフラフラと矢印の方向へ行ってしまった。変化のない毎日に飽き、ちょっと寄り道もしてみたくなった。小さな橋を渡った。誰もいない。お役御免となった蒸気機関車が、こんなところに展示されている。というより、置き去りにされているという感じだ。なんか、かわいそうな気もした。孤独な者同士、ある種の連帯感みたいなものをおぼえた。
旭川市には午後4時ごろ着いた。少し大きめの自転車屋を探した。というのは、このまま順調にいって、無事日本縦断を終えたとすると、帰りは当然自転車を折りたたんで、輪行することになるが、輪行袋がない。出発当時は持っていたが、徳島に立ち寄ったときに、荷物になるので置いてきてしまった。だから、どこかで購入しなければならない。旭川を過ぎるともう大きな町はないので、買うなら今のうちである。
ほどなく一軒見つけた。
豆壱郎:「輪行袋ありませんか?」
自転車店のおかみさん:「あ~、ウチには置いてないんですよ。近くに問屋があるから聞いてみますね」
と言って、電話で問い合わせてくれた。
自転車店のおかみさん:「あるそうです。今、持ってきてくれるそうだからしばらく待ってて下さい」
待っている間、笹モチのようなものをご馳走になった。
自転車店のおかみさん:「内地の笹はこんなに大きくないでしょう?」
豆壱郎:「ええ、そうですね。…おいしいですね」
腹がへっているので、おいしさ100倍。
10分ぐらいして、輪行袋が届いた。8,500円と、予定外の大出費をしてしまった。家に帰ればあるのに…。でもしかたがない。たちまちこれがなければ帰れない。九州に渡るときに使ったのが最後で、あとはこの北海道からの帰りに使う以外は必要がないのに、1kg近くある重い荷物をいつまでも持ち続けるのがイヤだったので、家に置いてきたわけだが、もし場所とそこに到着する日付さえわかっていたなら、輪行袋を送るという手もあったかもしれない。
豆壱郎:「ごちそうさまでした」
とお礼を言って、自転車店を後にした。
ユースホステルは楽しいが、まれに迷惑な宿泊客もいる。
さあ、あとは塩狩温泉ユースホステル目指してひたすら走るだけだ。しかし、かなり強い向かい風にあおられ、まっすぐ走ることさえままならない。くそー!あともう少しなのに。どうやらこの北海道も、素直には通してくれそうにない。ハンドルバーの下端を握り、極端な前傾姿勢で、ペダルを一歩一歩踏み込んでいった。
午後6時、ようやく塩狩温泉ユースホステルに到着した。このユースホステルは、何と12人部屋。2段ベッドが6つある。今まで泊まったユースはほとんど8人部屋だったが、さすがは北海道、訪れる客も多いためか、こうして集客人数を確保しているのだろう。ユースを利用する人が、だんだん減ってきつつあるというのに、これほど泊まり客が多いということは、北海道の人気の高さを如実に物語っていると言えよう。
豆壱郎のちょっと一言
ユースホステルは、会員数の減少、施設の老朽化、施設の後継者問題などを理由に、閉鎖に追い込まれてしまったところが多いと聞く。塩狩温泉ユースホステルは、豆壱郎が宿泊した1981年から25年後の2006年に閉館になったらしい。待ちに待った夕食。北海道といえばジンギスカン。4~5人を一つのグループとして、テーブルの真ん中にジンギスカン鍋がある。ヘルパーさんが前で焼き方を説明してくれた。
食った食った!後片づけを済ませて、部屋に戻った。しばらく休憩していると、
「ミーティングを行いますので、食堂談話室に集まってください」
と、放送があった。いつもなら、一人旅の寂しさを一時だけでも紛らすために出席するのだが、きょうはあまりにも大勢過ぎるのでパスすることにして、みんながミーティングを行っている間に風呂に入ろうと思い、浴場を探すと、ここは隣がホテルになっていて、ユースの宿泊者はホテルの風呂に入ることになっていた。もちろん、ユースとホテルとは通路でつながっているので、建物が別でも外に出る必要はない。しかし、ホテルの風呂ということになると、ユースのミーティング時間であろうがなかろうが、全然関係ないので、浴場は結構混雑していた。
ユースホステルの同室には、当時芸能界でよく売れていたロックグループ「横浜銀蝿」によく似たロッカー風の連中5~6人がいて、こいつらがまたウルサイ!同室にはほかにもたくさんの宿泊者がいるのに、周りの迷惑を顧みず騒いでいる。シャンプーしたあとのパーマ頭をドライヤーで乾かしながら、鏡を見て、
「なんだこりゃ。カリフラワーだ!」
自分で言うな!みんながもうベッドに入って寝ようとしている時間になっても、まだ数人でギャーギャー騒いでいる。この部屋は、おまえらの貸し切りじゃないんだぞ。