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Route-7 北海道⑤

HOME > Route-7 北海道> 1981年8月22日

3人組ライダーとの出会い。

「日本最北端の地」の碑のところへ、自転車ともども降りて行って、写真を撮ることにした。道中ほとんどカメラを外に出さなかったが、ここだけはぜひとも証拠写真を撮っておかなければならない。
近くにいたお兄さんにシャッターを押してもらった。こんな悪天候の日でも結構観光客がいる。もっとも、天気の良い日とか日曜祝日などなら、何百人も何千人も来るのかもしれないが。

宗谷岬
うしろのおばさんちょっと邪魔(笑)

宗谷岬
日本最北端の地の記念碑

今はもうここにはないかもしれないが、1981年当時にはこのような碑があった。この碑に書かれていた内容は以下の通り。

日本最北端の地

ここが北緯45°31′日本最北端の地である。この岬の東はオホーツク海、西は日本海であり、二つの潮流が交差している。快晴のときは、肉眼で見える樺太までわずか27マイル(43km)である。ここに記念碑を建立する。
●塔の高さは4m53cm。北緯45°31′を表わす。
●形態は北国に住む人々の道標である北極星の一陵を形どった。
●N字は北を表わし、台座の円形は平和と協調を表わす。
●塔には市民から寄贈を受けた郷土の銘石、ジャスパーをちりばめた。
●この地は第10回冬季オリンピック大会開催地であるフランスのグルノーブルと同じ緯度である。

昭和43年7月10日 稚内市長 浜森 辰雄

 

豆壱郎のちょっと一言

日本最北端の地の塔

1981年当時の「日本最北端の地の塔」は、上記の碑に書いてあるとおり、郷土の銘石ジャスパーがちりばめられていた。しかし、現在の塔にはジャスパーがない。三角の先端部分の形状も変わっている。また、円形の台座部分も階段の段数が増えており、さらにその階段の下や周りもきれいに整備されている。上の写真を見てわかるとおり、当時はゴロゴロした石が転がっていた。後になってから全体的にリニューアルされている模様。

さっきから何度も抜いたり抜かれたりした、ライダー3人組に、あらためてここで再会した。そして、初めて会話を交わした。
3人の中では一番年上とみられる、ヤマハXS650に乗った口ひげの男、
ヒゲの男:「やあ、また会ったね」
そして、ヒゲの男より少し若そうで背が高い男、
若い男:「おたく、速いね。オレらバイクがなかなか追いつかなかったもん。前方に走ってるのが見えても、差が縮まんないのよ」
豆壱郎:「だって、追い風だったじゃない」
若い男:「あれ?追い風だったの?わかんなかった」
豆壱郎:「やっぱりバイクだとあまり風は感じないの?」
若い男:「うーん、横風とかだとけっこう感じるんだけどね、追い風はあまりわかんないね」
豆壱郎:
「3人一緒に来たの?」
若い男:「ううん、最初別々だったんだけど、途中で一緒になって、『どこ行くの~?北海道。じゃ、一緒に行こうかーっ』てな具合で。オレ千葉、石川さんは土浦。それからあの人は、さっき知り合ったばかり」
さっき知り合ったばかりという人は、丘の上の「あけぼのの像」の所まで歩いて行っていた。ヒゲの男は石川という名前らしい。
若い男:「石川さんのバイク、すごいんだよ。XS650なんだけど、シートはアンコ抜きしてるし、前フォーク換えてこんなに長くしてて、まるでチョッパーだよね。で、ハンドルんとこに寝袋くくりつけてカッコイイんだよ」
…と、妙に石川さんを崇拝している感じだ。カリスマライダーか??
豆壱郎:「君は何に乗ってるの?」
若い男:「オレ、ホンダウイング。GL400ってんだけど、あれ、中途半端なアメリカンでさぁ、ケツ痛くって。北海道なんて、止まらずに何時間も走るから、普通に乗ってらんなくなって、しまいにゃ、こんなカッコで走ったりすんの」
と言って、お尻をうしろにずらして、上体を伏せる格好をして見せた。
若い男:「あー、でも地平線見れたから、もうなにも思い残すことはないよ」
と、彼は目を閉じて天を仰ぎ、感動にひたっている。
豆壱郎:「え゛~???ど、どこで見えたの?」
若い男:「どこでって…、さっきの道で……あれ?ま、まさか…見なかったの?」
豆壱郎:「…ペダル踏むのに必死で、道路しか見てなかった…」
若い男:「なんだよ、もったいねえな。地平線なんてさぁ、めったに見らんないよ」
豆壱郎:「…う~ん、残念~」

そして、この後3人のライダーたちは、次の目的地へと去っていった。僕もゆっくりと走り出した。

正直言って、日本縦断完走の感動はあまりない。まだ、実感が湧かないのかもしれないが、実際のところ追い風にあおられたこともあり、最後は意外にあっけなく到着してしまって、『あれ?ここがそうなの??…』といった調子で、なにか肩透かしを食らったみたいな気分だ。
宗谷岬の地理的な問題も、この“肩透かし”の一つの原因と思われる。つまり、もしも宗谷岬が断崖絶壁の上にあって、そこまでの道が一本道で、しかも極端な登り坂で、行き止まりが日本最北端の地だったとすると、到達したときの達成感が強烈に感じられそうだ。まるで世界最高峰チョモランマの頂上に立ったみたいに。
しかし、実際の宗谷岬は、平坦な道の横の海岸(浜辺)に記念碑が建っているだけなので、気がつかなければそのまま通り過ぎてしまうかもしれない。

ここに来るまで、僕はもしかすると、宗谷岬に立った瞬間、感動のあまり涙を流しながら、ヤッタゾーッとこぶしを突き上げるかもしれない、などと考えていた。なんのことはない。着いたのか…程度であっさりしている自分自身が意外だった。もがき苦しみ、よじりながら必死の思いで頂上に立つ登山のような、劇的なエンディングをイメージしすぎていたのかもしれない。しかし、長かったひと月だが、もう終わってしまったのか、という寂しさのようなものはたしかに感じていた。

宗谷岬をあとにして、稚内に向かった。きょうの泊まりはすでに、こまどりハウスユースホステル(現 稚内ユースホステル)に予約をとってある。あと30キロ足らずだ。走り出してすぐ、大粒の雨が降ってきたので、慌ててカッパを取り出した。しかしすぐやんだ。空を見上げると、黒雲が悪魔の嘲笑のように僕を見据えていて、いつまた降ってきてもおかしくない状態だったので、カッパは着たまま走った。
浜頓別から宗谷岬まではずっと追い風だったので、岬を回ったあとは向かい風になるかもしれないと心配していたのに、なぜかやっぱり追い風のままだ。前方からサイクリストがやって来る。彼にとっては向かい風だ。かなり苦しそうで、ハンドル下を握って伏せ込んでいる。すれちがいざま、
「がんばってー!」
と激励してあげた。彼は、一歩一歩必死にペダルを踏みしめながら、顔を上げてニッコリと精一杯の笑顔を見せてくれた。岬はもうすぐだ。頑張れ!
…そうか。こちらの方角から宗谷岬に向かう逆ルートなら、最北端に到着した感動もひとしおだったかもしれない。彼はきっと僕とは違って、充実感にひたることだろう。

 

超満員のユースホステルで。

稚内市内に入って、そば屋でメシを食ったのが午後3時45分。そして、それから1時間後にはユースホステルにたどり着いた。自転車置き場は建物の奥にあるようなので、ところどころ水たまりができているユースの庭を、自転車を押して歩いて行くと、ユースの建物の大きな窓の内側から、なにやら視線を感じたので、ふっとそちらを何気なく見ると、見覚えのあるヒゲづらがいた。ヒゲは、雨水の垂れる窓ガラス越しに、僕に向かって笑顔で手を振った。
「あっ!石川さんだ!」
宗谷岬で会ったヒゲの石川さんがそこに居た。何という偶然。こんなところで再び出会うとは…。いや、一概に偶然とも言えない。いくら広い北海道とはいえ、ここまで来ればほとんど一本道。行くところは限られてくる。おまけに国道40号線の不通。そして、ライダーなら泊まるところはホテルってことは少ないだろう。野宿かユースだ。この天気だから野宿は無理だろう。そうなると、このユースで彼らに出会う確率はかなり高くなってくるのだ。

…ううむ。なぜか部屋まで一緒になってしまった。このユースホステルは、一昨日泊まった塩狩温泉ユースホステルよりもっと詰め込んで、一部屋にナント20人。壁4面に2段ベッドが張り付き、真ん中の空白部分にまでも布団を並べるのである。荷物はまとめて隅っこにかためるしかない。

きょうはいったい何人泊まっているんだろうか。夕食時、大食堂はほぼ満席で、後から入ってくる人たちは、席が空くまでしばらく待たなければならないという状態。まるでスキー場のゲレンデ食堂さながらである。ようやく空席を見つけ、座った僕の隣には、背中に大きく「関西大学」と書いてあるジャージを着た連中が何十人か座っていた。
豆壱郎:「関西大学の人ですか?」
関大生:「そうです。関大のサイクリング部なんです」
豆壱郎:「北海道を回ったの?」
関大生:「いや、そうやなくて、あしたから4日間で日本縦断するねん」
豆壱郎:「日本縦断?! なんという偶然。じつは僕、南から走ってきて、きょう日本縦断完走したばかりなんだよ」
関大生:「ほんまかいな。へえ~。…で、何日かかった?」
豆壱郎:「あ、いや、僕はスローペースなんで、記録はどうでもええし、約ひと月…
なぜか声が小さくなってしまう…。
関大生:「ああ、…ま、一人で走るんならしゃあないわな。オレら延べ20人でリレーしながら走るから…。日本縦断の記録つくろう思てんねん」
豆壱郎:「ほおー。そりゃすごい。でも台風が心配やなあ。モロ直撃やもんね」
関大生:「それやねん。道内はまだええねんけどな。青函連絡船が欠航せえへんか思て、それが悩みのタネやねん」
豆壱郎:「まあ頑張ってや。きっとだいじょうぶやで」
関西人と話すときはナゼか関西弁になっている。(笑)

豆壱郎のちょっと一言

この関大サイクリング部の日本縦断4日記録は、のちに雑誌「サイクルスポーツ」誌に掲載され、その成功を知ることができた。

部屋に戻ると、また旅の話に花が咲く。宗谷岬で会った石川さんは、そのとき部屋にいなかったが、連れのホンダウイングの若い男は、岬であれだけ僕と話をしたにもかかわらず、僕の顔をすっかり忘れていたようで、いきなり変なことを言い出した。
ウイング氏:「そういえばさ、宗谷岬でスゲー速いチャリンコの人に会ったよ。オホーツク海沿いの道で何度も抜いたり抜かれたりしながら、岬でちょっと話したんだけどさ、なんでも日本縦断したんだって。チャリンコですごいことする人もいるんだなあ」
豆壱郎:「ちょっと待ってよ。それ、僕のこと言ってるんじゃないの?」
ウイング氏:「あれ?おたくだったの?」
豆壱郎:「そうだよ。この黄色いウインドブレーカーに見覚えない?」
ウイング氏:「そういえばそうだったような…」
豆壱郎:「なんだ、僕の顔を忘れてたのか。どうも変なこと言ってるなと思ったんだ」
そこへ、外に出ていた石川さんともう一人のライダーが部屋に戻ってきた。
ウイング氏:「あ、ねえねえ、石川さん、この人さっき宗谷岬で会ったチャリンコの人だって」
石川さん:「そうだよ。いまごろ何言ってんだオマエ」
ウイング氏:「あれーー?石川さん知ってたの?」
石川さん:「知ってたさ。だからオレさっき言ったじゃねえかよ。あの人だって」
ウイング氏:「なーんだ、オレだけか知らなかったの…。チェッ」
このウイング氏、歳を聞けばまだ19歳とのこと。若いなあ。石川さんの歳は聞かなかったが、僕よりは少し上のように見えた。23~24歳ぐらいか。
同室に僕と同い年の人がいて、なんと、京都からここまでずっとヒッチハイクで来たという。
豆壱郎:「ひえー!ヒッチで北海道まで来られるもんなの?」
ヒッチ:「だって、現に来てるじゃない(笑)」
そりゃそうだ。しかし、交通費0円で日本の半分以上を移動したことになる。これはすごいことだ。この人、帰りもやっぱりヒッチハイクだろうか?…だろうな。

豆壱郎は、日本列島をとうとう縦断し、日本最北端の地宗谷岬に到着した。
でも、これで旅が終わったわけではない。我が故郷徳島に帰らなくてはならないのだ。
じつは、ここから徳島までの3日間に、予想もしていないハプニングが…!

まだまだ続く…

が、旅の話は一旦ここで休憩して、1981年がどんな年だったのかを振り返ってみよう ≫

本日の出費 合計7,050円
旅館(幽霊の館以上に怖かった) 2,900円
めし 650円
電話(最北端の電話ボックスより) 300円
めし 500円
ユースホステル 2,700円

※金額は1981年当時の実際の金額です。

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