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番外編 富士スバルライン⑤

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1982年8月2日

「社長、すみません。いま埼玉にいるんですが、台風が来ててきのう帰れなかったんで、今からこっちを出発します。申し訳ないですけど、きょう一日休ませて下さい」
朝8時前に、僕が勤めている徳島の会社に電話を入れた。

「じゃあ、そろそろ出発するわ。いろいろ世話になったね。ありがとう」
と言って、友人Fと友人Kに別れを告げ、午前8時過ぎに埼玉をあとにした。
台風は昨夜のうちに通りすぎ、絵に描いたような台風一過の青空が眩しかった。

高島平から首都高速に乗り、今度こそ迷うことなく東名高速方面に走る。きのうここで道間違いさえしなければ、今ごろは普段通り会社で仕事をしているはずだし、これから起こる地獄のような体験などするはずもなかった。

順調に走っていると、東名高速厚木インターの少し手前あたりから車が渋滞しだした。なにか事故でもあったか、と思いながら、ノロノロ運転。しばらくすると、厚木インターで、赤い棒を振りながら下に降りなさいと指示しているおっちゃんが立っている。案内板に、「東名高速厚木インターより通行不能」と出ている。どうやら、きのうの台風の影響で、ここから先の道のどこかが壊れたか埋まっているようだ。
「なんだぁー?一般道走れってかぁ?」
通れないのならしかたがない。しぶしぶ一般道に降りた。

ここからが地獄の始まりである。

灼熱の渋滞地獄。

東名高速を西に向かっていた車は、全車一般道に降ろされたもんだから、国道246号線は、もともとこの道を走っていた車も巻き添えにして、満タン状態になっていた。動かない。10m進んで15分ストップ。車の列は、遥か彼方の見えなくなるところまで続いている。その先はわからない。迂回路はない。というか、よそ者の僕は知らない。他の車も迂回している様子はないところを見ると、たぶんこの道しかないのだろう。最初のうちは、
「渋滞しているのも今だけだろう。きっともうすぐスムーズに流れるようになるさ」
と、楽観視していたのだが、2時間、3時間と経過していくうちに、
「どおなってんだぁ~!!くっそー!!」
と、イライラも最高潮に。しかも、きのうの天気がウソのように、気持ちいいほど快晴になっている。ハラ立つが、思いっきり炎天下だ。それでも前に向かって走っていれば、多少なりとも風が吹いて楽になる。止まっているのはいただけない。アスファルトからの照り返しもある。さらに、僕のスバルレックス号はエアコンが付いていない。さらに、さらに、もう一つ言わせていただきたい。ガラスサンルーフ車なのである。

グワ~~!暑くてたまらんじゃないかっ!

周りを見てみると、みんな車を降りてその辺をぶらぶらと歩き回っている。完全に止まったまま何時間も同じ場所でいるのならまだ、車を離れられるのだろうけど、思い出したように10~20m動き出すから厄介だ。これだけ渋滞すると、ガソリンの残量だって心配のタネである。前方を見て、当分動き出しそうにないようだったら、エンジンを切る。

朝、7時過ぎに友人F宅で朝食を食べたっきり何にも口にしていないから、腹も減っている。でも、こんなときに限って、道の横には店がない。たまにある自動販売機でジュースを買ってごまかすぐらいだ。

焦りが判断を誤らせる。

それから何時間経過しただろう。太陽も沈み、夜になっても渋滞はまだまだ続いている。もう辺りはすっかり真っ暗になった頃、ふっと道の左を見ると、そば屋があった。しかし、こんな事態だからみんなここに殺到していて、とても食べられる状態ではなさそうだ。しかたない。またジュースでごまかすことにしよう。そう思って、車が動く気配がないのを確認して、スバルレックス号を車道の車の列に並んで置いたまま離れ、その店に飛び込んだ。今思えば、このときちゃんと列を離れて店の駐車場に車を止めればよかった。

人生というのは分かれ道の連続だ。「あの時こうしていれば」とか、「こっちの道を選んでいれば」など、「たら、れば」を言い出すと切りがない。

僕は、店に入ってビンのジュースを買ったあと、すぐまた店を飛びだし、ゴクッとひとくちジュースを飲んだ。前方の車道を見ると、僕の車の前に数十メートル開きができているではないか。店でジュースを買うほんの数分の間に動き出していたのだ。

ゲッ やべっ!

慌ててスバルレックス号に走り寄った。その時…。
僕はいきなりブッ転んでしまったのである。暗かったので、車道と店の駐車場の間に縁石があったのが見えなかった。しかも焦っていたからよけい周りのことが見えない。右手に持っていたのは…ガラスビンである。どうなったか想像できるだろう。まだひとくちしか飲んでいないのに…。そう思いながら自分の車に寄ろうとしていると、近くにいた人が、
「あんた、いっぱい血が出てるじゃない。そこの店に入って、手を洗わせてもらったら?」
「え?」
自分の右手を見て気を失いかけた。転んだときに右手に持っていたガラスビンが割れ、親指の付け根をグッサリとやってしまったのだ。
僕は、とりあえず片手運転で車を列からはずし、駐車場に移動させてから、言われるままに店に入っていき、手を洗わせてもらった。すると、お店の人が包帯やらキズ薬やらを持ってきてくれて、丁寧に巻いてくれた。

「すみません。お世話になりました」
とお礼を言って、外に出た。徐々に痛みが襲ってきた。
「ううっ!痛え~」
落ち着いたところで冷静に車の中を見ると、ハンドルやらドアやらあちこち血が飛び散っている。駐車場に移動させるときに付いたのだろう。しばらく片手運転で車を走らせてみたが、痛いし、渋滞もまだ続くようだし、きょうはもう走るのはここでやめようと思った。どのみちきょう中に徳島までは到底帰れるはずがないのだ。なによりも、気力が一瞬のうちにヘニャヘニャッとなってしまったのである。

時計を見ると午後8時。僕は、車を路側帯に止め、そのままシートを倒して寝ることにした。しかし、寝ようとするとズンッ…ズンッ…と、傷口が痛む。そうでなくても車の中ではなかなか熟睡できない。結局ウトウト状態で夜を過ごすことになった。

 

1982年8月3日

気がついたら時計は午前4時を指していた。まだ真っ暗である。しかし、道は車がすいすいと通っていた。ようやく渋滞は終わったようだ。
すいている間にちょっとでも前に進んでおこうと、また僕は走りだした。幸い、ここからは順調に進むことができ、途中から高速道路に戻ることもできた。
日中は、なんの問題もなく、東名、名神高速を走りきった。

埼玉~御殿場~徳島

徳島の自宅に到着したのは、夜の8時頃だった。結局、埼玉から徳島まで36時間かかったことになる。渋滞していた区間は厚木~御殿場。この区間約60kmを10時間もかけたのだ。
自宅にたどり着いてすぐ、埼玉の友人Fに電話をかけた。
豆壱郎:「たった今、徳島の自宅に到着したよ」
友人F:「ちょ、ちょっと待てえ~!ぬわにぃ~??今到着したって~?」
驚くのも無理はない。きのうの朝、埼玉を出たんだから、普通ならきのう中には徳島に戻っているはずだ。丸2日もかかるとは誰も思わないだろう。
友人F:「テレビで厚木~御殿場間の大渋滞を報道してたけど、まさか、その中にオマエもいたとは思わなかった」
豆壱郎:「ははは。僕も思わなかったが、じつは居たんだ、その中に。赤いスバルレックスが映ってなかったか?(笑)」
帰ってきたから笑える。これは歴史に残る記録的な大渋滞だったそうな。

そして、僕の右手の親指には、今でも傷跡が残っている。

月日 本日の行動
8月2日 埼玉----首都高速----東名高速----厚木----御殿場
8月3日 御殿場----東名高速----名神高速----神戸----徳島

これで終わってたまるか!

…さて、これでおしまいにしてしまうのでは僕の気がおさまらない。今回の旅はいったい何だったのだ?…ということになる。富士山五合目に失敗して、記録的な大渋滞を経験し、ケガをした。ただそれだけの旅…?

そんなんイヤじゃあああぁ~!!

もちろん、富士山リベンジはしましたよ。翌年、1983年にね…。

1983年のリベンジへ続く…。≫

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