再び故郷をあとにして…。
1981年8月5日(水)
-晴れ-
長年住み慣れた自分の家はやっぱり安心するのか、朝、9時まで寝てしまった。まあいいか、久しぶりにのんびりするのも…。いや、そうそうゆっくりもしていられないのだ。昨日の決断で、ロードレーサーに乗り換えることになったわけだから、荷物の準備をしなければならない。
サドルバッグは、それまでのパックフレームに比べて、容量は3分の1以下である。ということは、荷物を3分の1以下に減らさなくてはならない。誰でも旅に出ると、はじめはあれもこれもとたくさん持って行きたがる。旅慣れてくるにしたがって、だんだん荷物は減ってくるものだ。
さて、僕の荷物の中から、どれだけ不要な物を排除できるか。パックフレームをひっくり返し、必要なものと不要なものとを分ける。
さあ、これでどうだ。
ありゃ?ほとんど変わってないじゃないか。もう一度やり直し。
「これはあったほうがいいな」程度のものは、真っ先に捨てる。さらに、「これがないと不便だ」というものまで捨てる。これ以上捨てられないという限界まで減らして、ようやく半分だ。
バッグに詰めてみる。まだまだ入りきらない。「どうしても必要なもの」まで捨てる。必要に迫られたときは、現地で買えばよい。日本はどこへ行っても大抵のものは手に入る。でも、現地で買った物がバッグに入りきらなかったらどうする? ま、いいか。そのときはそのとき。
こうして、ようやく荷物は片付いた。(荷物はのちに紹介したいと思います)
豆壱郎のちょっと一言
豆壱郎は写真が趣味だ。したがって、カメラは必須アイテムである。あとから考えてみると、このカメラがいちばんバッグの中を占領していたのだ。それも、一眼レフにズームレンズである。いくら僕にとって商売道具でも、結局写真なんか撮っている余裕はなくて、道中、たった20枚しか写さなかったのであるから、このバカでかいバケモノさえなければ、もっとほかの荷物を持っていけたのに…と、悔やまれる。午前11時15分、再び我が家を離れる。この時すでに自転車はロードレーサーに変わっていた。
一度、挨拶のため会社に立ち寄った。すぐ出発するつもりでいたのに、ついつい同僚たちと余計な話に花が咲いてしまい、気がついたら時計は午後1時を回っていた。慌てて会社を出る。
職場の前で
(自転車はロードレーサーに変わっている)
九州でサドルカバーを落として、そのままなので、サイクルショップ・Nさんの所に寄って買おうとした。すると、財布がない。しまった。家に置き忘れてきた! バカ~!! 何をやっとるんだ僕は~!
またまた自宅に引き返す。
豆壱郎:「ただいま」
母:「あれ?どうしたん?」
豆壱郎:「財布忘れた」
母親もあきれ顔。
豆壱郎:「もう、遅れついでにめし食べて行くわ~」
再度出発したのは、午後2時半であった。もう一度サイクルショップ・Nさんへ行く。今度はちゃんとサドルカバーを買って、ようやく本当のスタートが切れる。ほんとはきょうは神戸ぐらいまで行くつもりだったが、今からじゃもう遅いので、淡路島の洲本あたりで宿を探すことにしよう。
走り出すと、さすがはロードレーサー。流れるような加速感。ミニベロとは雲泥の差だ。未来に期待が持てそうである。
豆壱郎のちょっと一言
1981年当時は、大鳴門橋も明石海峡大橋もなかった。鳴門海峡は亀浦~阿那賀の間でフェリーに乗って淡路島に渡ることができた。今はこのフェリーもなくなったし、大鳴門橋は自転車では渡れないので、このルートで淡路島に渡るには、車を利用するしかない。午後7時に洲本に着いた。港のすぐ近くのビジネスホテルに泊まる。653号室は、和室だった。なぜか、布団がすでに敷いてあって、枕が二つ並んでいる。これはいったい何を示しているのやら?
あまり深く考えずに、夕食を食べに外出した。
それにしても、自転車が変わってこんなにも走行距離が変わるのかと、ちょっと感動した。
きょうは午後2時半という遅い時間の出発だったにもかかわらず、80キロも走れたのだ。ミニベロなら朝から晩までかかってようやく走れるかどうかの距離である。このぶんなら意外とすんなり宗谷岬にたどり着けるかもしれない。