自転車日本縦断 広い日本そんなにゆっくりどこへ行く。

Route-1 沖縄③

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太陽が真上にある沖縄は、日中、休憩したくても日陰がない。

1981年7月27日(月)
-晴れ-

午前8時45分起床。船の上で事実上3日目の朝を迎えた。さすがにもういいかげん飽きてしまった。こんなに長時間船の上で過ごしたことのない僕にとって、今回の船旅は、金輪際こんな長距離フェリーなんか乗るもんかという決意をするには充分すぎた。

午前9時45分、那覇新港着。33時間50分に及ぶロングクルージングは、ようやく幕を閉じ、久しぶりに土の上へ足を降ろすことができた(と言っても実際には土ではなくコンクリートやアスファルト)。
しかし、船酔いのためか、ふらふらするし、気分も悪い。とりあえず自転車を組み立てる。ハンドルのグリップエンドに付けてあったバックミラーは、接着剤で止めただけだったので、輪行袋から出した時点ですでに外れていた。ほかに壊れているところは特になさそうである。

ふた晩風呂に入っていないので、なんとなく気持ち悪い。船の中に風呂はあったのだが、浴室がひとつしかなく、何時から何時までは男性、何時から何時までは女性というふうに男女入れ替え制だったので、面倒くさくて入るのはやめたのだ。

港を出て100メートルも走らないうちに、ドドドドドッという爆音。びっくりして振り返ると、ハーレーのローライダーがけたたましく通り過ぎていった。いきなりアメリカンな雰囲気に囲まれた気がした。ああ、沖縄に来ているんだっっ!

今夜の宿、那覇ユースホステル目指してペダルを回す。異常に暑い。沖縄は気温が高くても湿度が低くカラッとしているのであまり暑さを感じさせない、というふうに聞いていたが、とんでもない。あの強烈な太陽をじかに受ければ、誰もそんなことは言えなくなる。

船酔いの後遺症と直射日光のダブルパンチを受けて、吐き気をもよおしながら、午前11時半、ユースホステルに到着。どこをどう走ったかほとんど覚えていない。まだチェックインには時間が早すぎるので、とりあえず荷物を先に置かせてもらって、なんにも決めていない沖縄観光に出かけた。あの重たいザックから解放されただけでずいぶんと楽になった。しかし、暑さが変わるわけでもなく、頭ボーッはまだまだ続く。

まず、近くの大衆食堂に入って昼食をとることにする。あいかわらず気分が悪くてあまり食欲はないのだけれど、好きなカレーライスぐらいなら食べられるだろう。ところが、注文したカレーというのがこれまた沖縄らしいといえばらしいのかもしれないが、野菜の油炒めとカレーをごちゃまぜにしたような、八宝菜のような、とにかく油っこい。ただでさえ気分が悪いのに。もっとあっさりしたものを頼めばよかった。半分残して店を出た。

さあこれからどこへ行こう。沖縄の予定はほとんど立てていなかったので、行き当たりばったりだが、ユースホステルのペアレントさん(ユースホステルの世界では、管理人のことをこう呼ぶ)から、沖縄戦跡国定公園へ行ってみてはどうか?と勧められたので、とりあえず南に向かって走り始める。
が、途中で気が変わり、Uターンして北に向かう。

国道58号線を北に向かって約1時間。どうにも暑くてたまらない。周りに見える景色は、どこまで行っても金網ばかり。ここはほんとに日本なのか。これじゃまるでアメリカの植民地だ(アメリカの軍用基地が延々と続いていた)。時折、爆音と共に基地から飛び立つ軍用機が見えた。

沖縄
どこまでも続く金網
(写真は当時のものではありません)

暑い。ちょっと休憩しよう。といっても、日陰なんてどこにもない。それもそのはず。太陽はほとんど真上にあるので、建物などの影がないのだ。休憩もできない。
しばらくはだらだらと走り続けたが、北へ行くのもやめた。このままどこまで行ってもどうせ金網ばかりのような気がした。引き返そう。
Uターンしようとしたとき、自転車を倒しすぎてそのまま転んでしまった。肘に5ミリほどの擦り傷をつくってしまった。ちょうど車がいなくて良かった。なんかすっごくカッコ悪いが、幸い周りには誰も居ず、何事もなかったかのように自転車を起こして、その場をそそくさと立ち去った。

旧首里城守礼門へ行ってみることにした。別に門なんか見たところでなんの得にもならないような気もしたが、守礼門といえばなんとなく沖縄を代表する名所という印象があったので、一応沖縄へ行ったぞという証拠にはなりそうだ。


首里城守礼門の前で(1981年)


さすがに30年以上も経つと、
門周辺の景色もまるで違う。
(2011年)

場所はあまりよく知らなかったが、案内板を頼りに、登り坂をゆっくり登っていく。
ほどなく到着。近くにいた観光客の一人が、写真を撮ってくれと言ってカメラを持ってきたので、撮ってあげた。僕は、荷物はほとんどユースホステルに置いてきたがカメラだけは持って来ていたので、写してもらった。

豆壱郎のちょっと一言

1981年当時は、もちろんデジタルカメラが一般に普及する遙かに前なので、当然ながらフィルムカメラである。また、豆壱郎が日本縦断に持って行ったフィルムはカラーではなく白黒フィルムだった。

あんまり暑いので、クーラーのよく効いた喫茶店に入って少し休憩する。と言いつつ、少しのつもりがアイスコーヒー一杯で、2時間近くこの店で漫画を読んだりして過ごした。店のママさん、ゴメン!
店の外へ出た瞬間、今まで涼しいところに居た反動で倒れそうになり、思わず今閉めた店の扉をもう一度開けて店内に戻ろうかと真剣に思った。まだきょうは初日。日本縦断は始まったばかりなのだ。こんなことでこの先やっていけるんだろうか。

午後5時30分。まだ太陽はギンギンだが、なんとかユースホステルに戻って来ることができた。
宿泊申し込みの手続きをする。ペアレント(管理人)さんが、ボーッとしている僕を見て、
「暑いでしょう」
と声を掛けてくれた。
豆壱郎:「いや~暑いなんてもんじゃないです。頭がボーッとして、どこをどう走ったか全然覚えてませんよ。今にも倒れそうです」
ペアレントさん:「きょうは特に暑いよねー。きのうまで曇ってて比較的過ごしやすかったんだけど、きょうはカンカン照りだもんね」
豆壱郎:「僕って、いつもタイミング悪いんです」
そんなやりとりをしていると、同じ宿泊客の女の子が一人、僕の後ろを通りすがりに、
「あら?」
っと僕の顔を見て、見覚えがあるというような顔つきをして通り過ぎて行った。
ペアレントさんは、
「あの子、大阪からのホステラー(ユースホステルの宿泊客)だから、ひょっとして同じフェリーの中で君の顔を見たんじゃないかな?」
と言った。

部屋に入って落ち着いたところで、すぐ風呂に入った。その後食事。本当はあまり食欲がないのだけれど、体力を使う旅行だから、なんにも食べなかったらからだがもたないと思い、無理して詰め込んだ。

僕のほかにもサイクリストが何人かいたので少し話をする。歳は聞かなかったが、高校生ぐらいと思われる。なんと、東京から48時間かけて船で来たそうだ。僕は大阪から34時間もかかって沖縄にたどり着いたが、彼らはさらに14時間も長く洋上にいたということになる。上には上がいるものだ。

夜は食堂談話室で、卓球をする人、おしゃべりをする人など過ごし方は様々だが、なんとなく集まった8人(男女4人ずつ)でトランプでもしようということになった。
トランプを持っていた男が、
「なにする?…あれ、何ていうんだっけ、大富豪とかなんとか…大貧民だっけ?」
すると、夕方宿泊手続きをしていたときにすれ違った、例の大阪から来たという女の子が、
「大阪では、ド貧民いうねんけどな」
思わずプッと吹いてしまった。そういえば徳島でもあのゲームは“ド貧民”と呼んでいる。やっぱり関西のほうが口は悪いのかもしれない。でも、これってもしかして差別用語?

そのほか、いろいろトランプゲームをして楽しい一夜を過ごした。
一人旅というのはじつに寂しいものであるが、ユースホステルの楽しさは、この見知らぬ者同士の出会いである。きのうまで会ったこともない他人同士が、一晩だけ十年来の友だちのように親しくなれる。もちろんあしたからはまた別々の道を歩き出し、もう二度と出会うこともない。一期一会だ。だからこそ、腹を割って話ができる。そういう出会いは大切にしなければいけないと思う。僕が日本縦断を決意した動機の一つには、この見知らぬ人と人との心の触れ合いがしたいということもあった。これから先、どれだけの人と会話を交わすことになるかわからないけれど、生涯にたった一度だけの出会いになるかもしれないのだから、今この貴重な瞬間をしっかり楽しもうと思う。

就寝時間がきたので、それぞれ部屋に戻る。冷房しているという話だが、たいへん寝苦しい。夜中に何度も目が覚めた。

本日の走行距離: 33km
累計の走行距離: 33km
累計走行距離インジケータ

沖縄
(スタート)

東京
(中間点)

宗谷岬
(ゴール)
現在地
本日の出費 合計3,630円
缶コーヒー 100円
カレーライス 400円
ジュース 90円
アイスコーヒー 250円
ジュース 120円
ユースホステル宿泊費 2,500円
電話代 100円
ジュース 70円

※金額は1981年当時の実際の金額です。

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