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日本縦断大計画②

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(日本縦断大計画の続き)

1980年2月
「社長、今年の夏に1ヶ月ほど休ませていただけませんか」
ついに言ってしまった。この言葉がなかなか言い出せなかった。返事が怖かった。もし駄目だと言われたらどうしよう。最悪の場合、会社を辞めてでも日本縦断は決行する覚悟でいた。しかし、その心配には及ばなかった。社長の返事はOKである。やったーっ! 嬉しい。第一の関門突破。
今度は親の承諾を得なければならない。翌日話をした。母には完璧にイヤな顔をされた。しかし、言い出したらきかない、わがままな僕の性格をよく知っている母の顔は、最後には諦めの色をしていた。つくづく親不孝なヤツだと思う。

1980年3月
コースの計画はうまくいっていない。距離がまだ長すぎる。もっと縮めなければ…。自転車の購入は? 資金はどのくらい?

1980年5月
コース決定。約3,600キロまで縮めることができたが、もうこれ以上は無理だろう。コース決定と同時に日程も決めた。一日平均130キロは走らなければならない。ミニベロで走行可能な距離だろうか。
日程が決まればユースホステルの予約もできる。予約のハガキを発送した。全日程の約半分がユースホステル、4分の1が旅館かホテル、残りが野宿の予定である。

豆壱郎のちょっと一言

4分の1は野宿をする予定だったが、結局一度も野宿はしなかった。翌日に疲れを残さないためには、やはり屋根の下で寝るのが一番だ。高校の時に野宿の経験があるが、夏場は蚊に悩まされる。熟睡できない。さらに、野犬とかもいるかもしれないし、とにかく物騒!

 

準備は着々と進んだが…。

高校時代からお世話になっているサイクルショップ・Nさんへは毎日のように入りびたり、いろいろ相談にのってもらった。フレームの製作は、ショップの知り合いで兵庫県にある製作所にお願いすることになった。オーダーメイドである。何しろ特殊な自転車であるため、僕はまったくのシロウト。製作所の人も初めての試み。部品も、普通の自転車と同じような感覚で選ぶことはできない。ミニベロならではの問題点も多数あるので、そのへんを考慮して充分吟味しなければならない。(どのような問題点があるかについては、自転車の紹介コーナーで述べることにします)

日本縦断を行う季節やコース、北上か南下か、などについては、人それぞれ考え方が違うが、季節についてはほとんどの人が夏を選ぶ。僕自身も夏を選んだ。理由はいくつかある。まず、僕は夏が好きである(これは非常に重要なファクターである)。次に、衣類が少なくて済む。つまり荷物が軽くなる。軽快な服装だから動きも軽快だ。天気も良い日が多い。もっとも、夕立や台風の問題はあるが、梅雨や冬の雪よりはましだ。野宿も可能である。そして、旅行者(つまり仲間)が多い。などなど。
夏に走ることの最大のデメリットは、やはり暑さとの戦いである。できれば、冷夏であってくれれば言うことはないが、こればかりは僕の力ではどうしようもない。暑さに打ち勝つ忍耐力で克服するしかないようだ。
北上か南下か、つまり、沖縄を出発して宗谷岬を目指すか、それとも宗谷岬から沖縄に向けて走るかについては、僕は北上を選んだ。なぜかというと、一つは、僕は昔から北海道には憧れをもっていた。最も行きたいところを最後にもってくることによって、途中で挫折せずに完走しきる気力を維持できると思ったからだ。また、地の果てとも言える日本最北端の地、宗谷岬のほうが、最終点としてふさわしい気がした。もう一つの理由は、始めに暑い地方を走っておいて、北上するに従って徐々に涼しくなってくれば走りやすくなるだろうと考えたからである。

豆壱郎のちょっと一言

豆壱郎は失敗をした。始めに暑い地方を走ったため、初っぱなから暑さにやられ、予定を大幅に変更しなければならなくなった。また、実際に走ってみて感じたことだが、真夏はどこまで北上してもちっとも涼しくならない。九州も東北もたいへん暑い。日本の夏に緯度の差はないのか。(北海道は例外。真夏でも寒かった)

1980年6月
ユースホステルに出した予約ハガキの返信が全部返ってきた。これで約半分のねぐらは確保できた。しかし、逆に言うと、ねぐらを確保するということは日程的に拘束されるということだ。途中どんなことがあっても、そこにたどり着かなければならない。

時刻表購入。沖縄行きの船の出航日を確認した。日程を決定するうえで、この沖縄航路が非常に重要なカギを握っているのだ。つまり、大阪→沖縄の出航日と沖縄→鹿児島の出航日との連携がたいへんむずかしい。二つとも毎日出航するわけではない。二日おきあるいは三日おきに出航する。この連携がうまくいかなければ、九州上陸後の日程に大きく影響してくるのである。5月に日程を決定した時点で、出航日は確かめておいたが、万が一7月の出航日が変わったりしてはいまいかと心配だった。しかしその心配には及ばなかった。
ただ、やむを得ない事情とはいえ、沖縄滞在が1日しかとれなかったのはちょっと残念だ。

1980年7月
交通公社(現 株式会社JTB)へ行って、大阪→那覇、那覇→鹿児島の船の予約をした。
旅行に必要な携行品をリストアップ。持っていない物は随時購入。携行品を入れるバッグは、ミニベロには付けるところがないので、背中にかつがなければならない。重い荷物をかついで長距離を何日も走るのはかなり体力を消耗すると思うが、やむを得ない。できるだけ荷物を減らすと同時に、合理的に設計されたパックフレームを購入することにした。

エバニュー Back Country Route 6
BACK COUNTRY Route 6

このパックフレーム、肩ヒモは幅が広くて分厚いパッド入り。フレームは軽いマグネシウム。そして、人間工学に基づいて曲線を描き、ザックと背中がくっつかないようにすき間が空くようになっている。つまり汗をかきにくい。これならかなり体力消耗を軽減できそうだ。

豆壱郎のちょっと一言

豆壱郎は失敗をした。このパックフレームは、歩くことを前提に作られている。いくら人間工学に基づいていようが、自転車乗りには向いていない。結論=荷物は1グラムでも軽いほうが良い。ましてや、背中にかつぐのならなおさらである。できれば身に付けずに、自転車に取り付けるほうが負担ははるかに軽い。

1980年7月19日
オーダーしてあった自転車がついに完成した。フレームは金色。しかも表面に特殊な加工を施し、ちりめんじわのような細かいしわが入っている。こんな塗装今まで見たことがない。変わったモノ好きの僕は、すっかり気に入ってしまった。素晴らしい自転車に仕上がっている。

1980年7月20日
きょうは日曜日。早速試乗してみることにした。ハンドルが異常に軽い。フラフラする。直進性はあまりよくないようだ。コースは、僕が初めてサイクリングをしたときと同じ80キロのコース。始めに峠道が10キロほどあるが、予想以上に苦しい。ペダルが重い。平地では普通のスポーツ車とほとんど変わらない程よく走るが、登り坂ではまったくお手上げである。まるで鉛の玉を引きずっているようだ。決定した日本縦断のコースは、大部分が登り下りの激しい山間部のコースである。急に気が重くなってきた。

1980年7月23日
いよいよ出発は2日後に迫った。会社の人に、
「今の心境は?」
と聞かれたが、本人はまだ実感が沸かない。

ところがこの日とんでもない大事件発生!

チェンジ・ワイヤーの調子が悪いので、夜8時頃サイクルショップ・Nさんの所へ行って、取り換えてもらった帰り道、走っている途中でいきなりガクンというショックがあった。道に穴が開いていたわけでもなく、何事かと自転車のあちこちを見て回ると、な、なんと!

溶接が外れた

フレームがボトム・ブラケット(クランクの軸の部分)のところでシートチューブとの間にパックリと口を開けているのだ。溶接がはずれたのである。
「こらアカンわ」
僕は思わずそうつぶやいた。すぐサイクルショップ・Nさんに電話をして、事情を説明した。Nさんは、しばらく考えたあと、こう判断した。明日の朝、Nさんがすぐフレームを持って、このフレームを作った兵庫県の製作所まで走り、応急的にフレームをつなげる。その自転車でとりあえず出発し、僕が沖縄、九州、四国を走って徳島を通過するまでに、もう一台ちゃんとしたフレームを作っておき、徳島から先は新しい自転車で再スタートすればよい、と言うのだ。僕は、すぐに決断ができなかったので、明日の朝もう一度電話すると約束して電話を切った。その夜、僕は寝ずに対策を考えた。いくつかの方法があげられた。

  1. Nさんの言う通り、出発までに応急処置をしてもらい、徳島を通過するまでにもう一台フレームを作り直してもらう。
  2. ミニベロを諦め、ロードレーサーで予定通り出発する。(僕は、このほかにランドナー1台とロードレーサー1台を持っていた)
  3. 出発の日を1ヶ月程度ずらす。その間にフレームを作り直す。
  4. 来年に延期する。その間にフレームを作り直す。
  5. 中止する。

あれこれ考えてはみたものの、結局考えはまとまらないまま夜が明けた。朝になってようやく「4」がいちばん妥当であろうという結論に達した。気が変わらぬうちにNさんに電話をし、勤め先の社長にも延期の報告をした。体中の力がいっぺんに抜けていくような気がした。

豆壱郎のちょっと一言

この時、僕はすごくショックを受けたが、後から考えると、壊れたのが出発前でまだよかったのだ。これが、旅行の真っ最中に起こっていたとすると、どうなっていたかわからない。状況次第では、大けがをする危険性もあったわけだ。

阿波おどり

1980年8月
こうなったらヤケだ。僕はもうほかのことで気を紛らわすしかなかった。会社の先輩の紹介で、阿波おどりの有名連に入り、すべてを忘れたように踊り狂った。(~天水たちとの夏~のページ参照

1980年9月
2台目のフレーム完成。今度は前回と違う溶接方法なので絶対に間違いはない、と太鼓判を押すサイクルショップ・Nさん。ちょっと心配している僕。

一から出直し。

1981年4月
再び、コース及び日程の詳細を組直す。コースは昨年のものと若干の変更があり、距離も少し短くなった。

1981年5月
ユースホステルに予約のハガキを出す。

1981年6月
船の予約をする。

1981年7月24日
ようやく長い一年が過ぎた。準備はすべて整い、あとは明日の出発を待つばかりである。やや興奮気味に、出発前日の夜は更けていった。

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